はじめに
現代の日本が抱える財政赤字は深刻です。現在、日本は、総債務残高の対国内総生産(GDP)比が主要先進国の中で最悪の水準にあり、また基礎的財政収支(プライマリーバランス)も赤字が続き、毎年、国家財政が悪化し続けており、財政再建は必須となっています。
しかし、約300年前の江戸時代中期にも、同様の財政危機に直面した改革者がいました。
それが第8代将軍・徳川吉宗による「享保の改革」です。17世紀後半に金銀の産出量が一気に減少し、さらに算出した金銀もほとんどが海外へ流出したため、江戸幕府は一気に財政難に陥ります。この絶望的な状況から幕府財政を立て直した吉宗の手法は、現代の組織経営や行政改革に多くの示唆を与えています。
1. トップダウンによる強力なリーダーシップ
享保の改革の特徴は、将軍自らが先頭に立って改革を推進したことです。徳川吉宗は、自ら指揮を執って庶民、幕閣に倹約を強いただけでなく、新田開拓、商品作物(しょうひんさくもつ:商品として販売するための作物)の栽培推奨によって農業を盛んにし、税収も増加させます。
現代企業でも、変革期には経営トップの明確なビジョンと率先垂範の姿勢が不可欠です。組織の変革は抵抗勢力との戦いでもあり、トップが自らリスクを背負って改革を主導する姿勢が組織全体のモチベーションを高めます。
自らの身を削る改革:徳川吉宗自身が、冬でも襦袢(じゅばん:下着)を着用せず、食事も粗食を1日2食という生活を続けていたのです。江戸幕府将軍がこれでは家臣も文句を言えず、一気に江戸幕府の支出は抑えられていきました。このように、リーダーが自らの特権を放棄することで、組織全体の意識改革を実現しました。
明確な意思決定の迅速化:頻繁に老中を呼び、江戸幕府の財政状況や「江戸城」(どじょう:東京都千代田区)の構造など、様々な難問を浴びせました。老中のほとんどは即答できず、徐々に徳川吉宗自身が政務を担うようになったのです。現代でも、危機的状況ではスピーディな意思決定が組織の生死を分けることがあります。
トップダウンによる改革は強い推進力を持ちますが、組織全体の納得と協力を得るためには、リーダー自身の行動で模範を示すことが重要です。
2. 安定的な収入確保による財政基盤の強化
享保の改革の核心は、不安定な財政収入を安定化させることでした。吉宗は過去の収穫量から年貢高を決める「定免法(じょうめんほう)」を制定しました。年貢高が一定になったため、役人による不正が行われにくくなったのがこの制度のメリットです。
この安定収入の確保という発想は、現代のビジネスモデルでも重要な考え方です。単発の売上に依存するのではなく、継続的で予測可能な収益構造を構築することが企業の持続的成長につながります。
予測可能性の向上:従来の検見法では毎年の収穫量に応じて年貢が変動していましたが、定免法により一定期間の平均値に基づく固定年貢制度を導入しました。これにより、幕府は将来の収入予測が立てやすくなり、長期的な政策立案が可能になりました。
管理コストの削減:役人が村々を訪れて検地する経費を削減でき、賄賂などの不正を減少させる効果はありました現代企業でも、複雑な管理システムをシンプル化することで、運営効率の向上と不正防止の両方を実現できます。
ただし、この制度には農民側の反発もありました。豊作・凶作にかかわらず一定の年貢を納める必要があったため、しばしば村民から反発が起こることもありました。現代でも安定性を重視した制度設計では、利害関係者への配慮と説明責任が重要です。
3. 能力主義による人材登用システム
享保の改革の多様な政策の中でも、徳川吉宗の人材登用は画期的でした。当時は身分制社会であり、家格(かかく:歴史において家系が得た格式のこと)に応じて役職が割りあてられていました。この硬直的なシステムを打破するため、吉宗は革新的な制度を導入しました。
それが「足高の制」です。禄高(ろくだか、給与)が足りないために役職に就けない優秀な人材に対して、在職中だけ不足分を加増する「足高の制(たしだかのせい)」もその一つです。
現代の組織運営においても、年功序列や既存の枠組みにとらわれない柔軟な人材登用は競争力向上の鍵となります。
実力本位の登用:家格ではなく実際の能力を重視した人材配置により、組織全体のパフォーマンスが向上しました。現代でも、学歴や経験年数よりも実際の成果や潜在能力を評価する企業が成長を続けています。
期間限定の処遇改善:在職期間中のみの加増という仕組みは、現代のプロジェクトベースの手当制度や役職手当の考え方に通じています。固定的なコストを抑えながら、必要な時期に適切な人材を適切なポジションに配置できます。
この制度により、優秀な地方巧者(土木技術者)などが重要な新田開発事業を成功に導きました。現代企業でも、特定のスキルを持つ人材を柔軟に登用・活用できる仕組みづくりが組織の適応力を高めます。
4. 民意を反映する意見収集システム
吉宗が設置した「目安箱」は、現代でいう企業の提案制度やオープンイノベーションの先駆的事例です。1721年(享保6年)、江戸日本橋のたもとに高札を立て、農民・職人・商人や医者・易者ら人々の意見を広く募るため、目安箱を設置しました。
現代の組織経営でも、現場からの意見や提案を積極的に収集し、経営に反映させる仕組みが重要です。トップダウンの改革だけでは見落としがちな課題や改善点を、現場の声から発見することができます。
直接的な意見収集:将軍自ら封を開け、目を通し、担当奉行に指示を与えたのです。火除け地や瓦葺き屋根、小石川養生所も庶民の政策提言によるもの。トップが直接現場の声に耳を傾ける姿勢は、組織の透明性と信頼関係の構築につながります。
建設的な批判の奨励:なかには幕府批判もありましたが、その勇気を称えて褒美を取らせることもありました。現代でも、組織への批判的意見を適切に評価し、改善に活用する文化が組織の成長を促進します。
この制度は単なる意見収集にとどまらず、実際の政策実現につながったことが重要です。現代企業でも従業員提案制度を設けているところは多いですが、提案が実際に採用・実施される率を高めることが制度の実効性を左右します。
5. 新規事業開発による収入源の多様化
享保の改革では、従来の米作中心の農業から商品作物栽培への転換を図りました。蘭学者(らんがくしゃ:オランダ学問の研究家)の「青木昆陽」(あおきこんよう)が普及させた甘藷(かんしょ:サツマイモのこと)・菜種・サトウキビ・朝鮮人参などの商品作物の栽培が盛んになり、税収も向上しました。
現代企業でも、既存事業だけに依存せず、新しい収益源を開拓することが持続的成長の鍵となります。市場環境の変化に対応するため、事業ポートフォリオの多様化は重要な戦略です。
技術革新の活用:新田開発においても最新の土木技術を導入し、江戸時代初期の新田開発は農業用水として湖沼や溜池、小川の水を利用できる場所で行われ、大河川の中下流域付近は手付かずのままでした。肥沃な地帯が開発対象とならなかったのは、当時の築堤技術では河川の流れを統制することができなかったためです。しかし、技術の進歩により従来不可能だった地域の開発が可能になりました。
外部専門家の活用:青木昆陽のような蘭学者を起用して新しい作物栽培を推進したように、現代でも外部の専門知識を積極的に取り入れることが新事業開発の成功要因となります。
この収入源多様化戦略により、米価の変動リスクを軽減し、より安定した財政基盤を構築することができました。現代企業でも単一事業への依存度を下げ、複数の収益柱を持つことがリスクヘッジとなります。
6. コスト削減と効率化による組織スリム化
享保の改革では、徹底的なコスト削減が実施されました。特に注目すべきは、ある日、徳川吉宗は大奥に対して「美女50名を選抜せよ」と命令。役人は江戸幕府将軍の好色ぶりにあきれながら名簿を提出すると、徳川吉宗はなんとその50名を解雇してしまいました。理由は「美しい女性なら、大奥を出ても良い家の縁談があるから」。
この逸話は、単なる人員削減ではなく、削減される側の将来まで考慮した人道的なリストラの先例として評価できます。現代の組織運営でも、効率化と人員配慮の両立が重要な課題です。
聖域なきコスト見直し:将軍の私的空間である大奥にまで効率化のメスを入れたように、現代でも経営陣の特権的な支出から見直すことで、組織全体の意識改革を促進できます。
削減対象者への配慮:解雇された女性たちの再就職可能性まで考慮した判断は、現代の人員削減でも参考になる考え方です。単純な切り捨てではなく、対象者の将来性を考慮した施策が組織の信頼性を保ちます。
また、大名により多くのお米を納めてもらうことを定めた制度でした。大名に負担を強いる代わり、参勤交代で江戸にいる期間を短縮するという内容でした。上米の制のように、負担増加と引き換えにメリットを提供する仕組みは、現代の組織変革でも応用できる手法です。
7. 法制度整備による司法改革と紛争解決
享保の改革では、裁判制度の効率化も重要な施策でした。このころの幕府は慢性的な財政難でしたので、武士たちに給料がきっちり支払えないこともありました。そうすると武士たちは生活のために借金をしなくてはならず、結局返せなくなり、貸主から訴えられるケースが激増していました。これによって裁判所の業務が逼迫してしまいます。
この問題に対し、吉宗は「相対済し令」を導入しました。金の貸し借りのトラブルを当事者同士で解決させる「相対済し令 (あいたいすましれい)」は、公事方御定書と同様に裁判の回数を減らすためのアイデアです。
現代企業でも、紛争や問題解決のプロセスを効率化することで、管理コストを削減し、組織の生産性を向上させることができます。
当事者間の直接解決促進:現代の企業内紛争解決でも、上司や人事部が介入する前に、当事者間での話し合いを促進する仕組みが有効です。ADR(裁判外紛争解決)の考え方は現代でも広く活用されています。
制度的枠組みの整備:単に「話し合って解決しなさい」というだけでなく、具体的な手続きやガイドラインを整備することで、実効性を高めることができます。
この制度により、裁判所の負担軽減と同時に、紛争の早期解決が実現されました。現代でも、組織内の問題解決プロセスをシステム化することで、管理工数の削減と迅速な課題解決の両立が可能です。
8. 危機管理体制の構築と社会インフラ整備
享保の改革では、火災対策という危機管理の観点からも重要な制度改革が行われました。江戸町奉行の大岡忠相(おおおかただすけ)を中心に、火事に対する自治組織である「町火消(まちびけし)」を設置したのも吉宗の功績といえます。
現代企業でも、災害や事故などのリスクに対する備えは重要な経営課題です。自主的な危機管理体制の構築は、組織の継続性確保に不可欠です。
地域密着型の対応組織:町火消は地域住民による自主的な消防組織でした。現代でも、各部門や拠点レベルでの自主的なリスク管理体制を構築することで、迅速で実効性の高い危機対応が可能になります。
予防的インフラ整備:火事の多かった江戸の町の防火対策として、瓦葺屋根や土蔵などの使用を奨励したり、広小路(ひろこうじ)や非除地(ひよけち)をつくり延焼防止を図ったりしました。現代でも、問題が発生してから対処するのではなく、事前の予防策に投資することで、長期的なコスト削減と安全性向上を実現できます。
この危機管理体制の構築により、江戸の都市機能の安定性が大幅に向上しました。現代企業でも、BCP(事業継続計画)の策定や災害対策の充実が、長期的な競争力維持につながります。
9. 技術革新による生産性向上
享保の改革では、新田開発において当時最先端の土木技術が活用されました。これらの開発の現場で指揮を執った人の大半は、徳川吉宗が紀州藩主時代に育てた地方巧者(じかたこうしゃ:土木技術者)であり、その代表が井沢弥惣兵衛(いざわやそうべえ)でした。
技術革新による生産性向上は、現代企業でも競争優位の源泉となります。既存の技術的制約を突破することで、新たなビジネス機会を創出することができます。
専門技術者の育成:吉宗が紀州藩主時代から計画的に技術者を育成していたように、現代企業でも長期的視点での人材育成が重要です。特に技術系人材については、継続的な投資と育成が不可欠です。
技術的ブレークスルーの追求:従来不可能だった大河川流域の開発を可能にしたように、現代でも既存の技術的限界を突破する革新的なアプローチが新市場開拓の鍵となります。
この技術革新により、従来は開発不可能だった肥沃な土地の活用が可能になり、大幅な生産性向上を実現しました。現代でも、デジタル技術やAI技術の活用により、従来の業務プロセスを革新することで大幅な効率向上が期待できます。
10. 持続可能な成長モデルの構築
享保の改革の最終的な目標は、一時的な財政改善ではなく、持続可能な成長基盤の構築でした。開発によって米を育てる新田自体を増やしたことで、献上米や年貢などの収入は増加しました。赤字だった幕府の財政が黒字化したのは、享保の改革による大きな功績です。
現代企業でも、短期的な業績改善だけでなく、長期的な成長を支える基盤づくりが重要です。持続可能性を考慮した経営戦略が、企業の長期的価値向上につながります。
生産基盤の拡大:新田開発により物理的な生産能力を増強したように、現代企業でも生産設備や技術基盤への投資が長期成長の基礎となります。単なるコスト削減ではなく、将来の成長に向けた投資も重要です。
収益構造の安定化:定免法による安定した税収確保のように、現代企業でも予測可能で安定した収益モデルの構築が持続的成長を支えます。サブスクリプションモデルや長期契約による収益の安定化などがその例です。
ただし、享保の改革にも限界がありました。改革によって起こった出来事や、その後の影響をチェックしましょう。開発によって米を育てる新田自体を増やしたことで、献上米や年貢などの収入は増加しました。赤字だった幕府の財政が黒字化したのは、享保の改革による大きな功績です。しかし、農民の暮らしは苦しくなる一方で、各地で農民による一揆が頻発するようになったのです。
まとめ
享保の改革から現代に活かせる教訓をまとめると、以下の要素が組織変革の成功要因として浮かび上がります。財政危機を乗り越えた徳川吉宗の改革手法は、現代の企業経営や行政改革においても応用可能な普遍的な原則を含んでいます。特に、リーダーシップ、システム改革、人材活用の三つの観点から、時代を超えて通用する改革の本質が見えてきます。
享保の改革の現代的教訓一覧
改革要素 | 享保の改革での実施内容 | 現代への応用 |
---|---|---|
リーダーシップ | 将軍自らの率先垂範による改革推進 | 経営トップの明確なビジョンと行動力 |
収入安定化 | 定免法による予測可能な税収確保 | サブスクリプション等の安定収益モデル |
人材登用 | 足高の制による能力主義の導入 | 実力本位の評価・登用システム |
意見収集 | 目安箱による庶民の声の政策反映 | 従業員提案制度とオープンイノベーション |
事業多様化 | 商品作物栽培による収入源拡大 | 新規事業開発とポートフォリオ戦略 |
効率化 | 大奥改革等の聖域なきコスト削減 | 全社的な業務プロセス見直し |
制度改革 | 相対済し令による紛争解決効率化 | 社内問題解決プロセスの体系化 |
危機管理 | 町火消による自主的防災体制構築 | BCP策定と部門別リスク管理体制 |
技術革新 | 地方巧者による土木技術の活用 | デジタル技術等による生産性向上 |
持続性 | 新田開発による長期成長基盤構築 | ESG経営と持続可能な成長戦略 |
現代の組織が享保の改革から学ぶべき最も重要な点は、改革の目的を短期的な課題解決ではなく、長期的な組織基盤の強化に置くことです。そして、改革を成功させるためには、トップの強いリーダーシップと現場の創意工夫を組み合わせた総合的なアプローチが不可欠であることが、300年の時を経て改めて証明されています。